災異説におけるコロナ論 第十三話

 木火土金水(もっかどこんすい)の五行は、世界そのものを分割する機能を持っている。逆に言えば、木火土金水の五行で世界の全てを構築しているのだ。

 そのため、人間の内臓も、それぞれ五行に属しており、俗に言う、五臓六腑とはこのことを指している。
 
 さて、肺は五行で言えば、金行に属している。
 素朴に、肺が悪ければ、金行が何か悪いという考えが、漢方の基礎中の基礎の考えである。
 
 そして、ここで重要なのは、現代の科学的思考に教育された現代人が間違えやすい点であるが、
 この五行の分類は、「演繹法」であって「帰納法」では、無いということだ。

 今でも「占いは統計学である」という意見があるが、これは古代思想に一知半解な者の言だ。

 どういうことかと言うと、世界に数多ある存在を、何が何でも、五つの箱に「無理やり収納分類する」演繹的な考えが五行論である。
 逆に言えば、世界に、五つに入れられない、分類出来ない物は存在しない。
 初めに5の分類要素があり、そこから世界の現象を無理やり分類するという、まず原理あっての演繹法である。

 データを収集し、新しい元素が見つかったから、六番目のエレメントにするという、化学の周期表のような、帰納法(現象から理論を導き出す)では無いのである。
 ここが、近代以後の科学的思考と、古代の五行論思考の違いである。

 これは、五行に限らず、易の八卦でも、西洋のホロスコープの惑星でも同じ思考回路である。
 だからこそ、「占術は統計学」と言う言葉は間違いと言える。
 経験・実験として、現象をデータとして集め、原理を抽出する演繹法では無いからだ。
 初めに原理そのものを決めて、現象データをはめ込むのが、古代の思考方法である。

 現代の帰納法の科学思考では、世界は未知に満ちていて、科学の発見により、世界はより解明していく。しかし、古代の演繹法の思考は、世界はすでに完成している。そこから分割するだけである。完成図が未来にあるか過去にあるかである。科学の帰納法は未来に向かい、古代の演繹法は過去に向かう。

 川中島が言っている、「易の八卦の巽」は、五行の5パターンとは違って、世の中を8パターンに分解する易の話である。
 易占と言う、筮竹をジャラジャラする占い師のイメージは、一般にも共通だが、易は、本来、儒教のテキスト(四書五経)で、万物を二進法に数理学的に見る思考法だ。

 今でこそ、巷の占い師の道具のイメージだが、易は、聖人君子が世界を観察して、善政を行うのに使用したツールであり、易経には必ず観察した現象に対して倫理道徳的な改善の方策が述べられている。その意味では、災異説で為政者の君子が、為政を改めるために五行論を使用するのと、同じ使い道であると言える。

 易は、五行の木火土金水の5パターンではなく、八卦と言う、8パターンの世界分類ではあるが、思考の根源は一緒である。
 自然界を観察し、世界を陰陽の2パターンに分類し、展開するところまで一緒である。差異は、陰陽から二進法で二回重ねて、春夏秋冬の四パターンプラス一パターンの五行論に対し、陰陽を三回重ねる。2の3乗なので8パターンとなる。

 また、五行論がそのまま単独で使わず、相互の相生相剋の関係性で、さらに精緻に事象を見るように、
易も、その八卦を重ねて、64卦と言う64パターンの事象を出すため、五行論より具体的な細かい事象を出すことが出来る。

 五行論にしろ易にしろ、そんな簡単なパターンでこの世界の事象を全て説明することが出来るのか?と、普通の現代人は考えるであろう。
 しかし、実際のところ、少なくとも我々、人間というのは、いつの時代も大して変わりは無いのである。仔細に検討すればするほど、呆れるほど非個性的だ。

 例えば、百年前のご先祖は、何を悩んでいたか?
 やれ、貧乏で金が無い、モテない、嫁姑の問題が、政治家がと、今と全く変わらない問題で苦しんでいた。
 百年前どころか千年、万年前のご先祖様も同様である。
 いつの世も、人間は貧・病・争の三拍子で悩み、愚痴を言い憎悪を滾らせて、お互いに殺し合ってきたのだ。

 この地球上にいる億の人間は、万年単位で、まったく進歩も進化もしていない、無個性な大衆である。
 誰しもが、この地球上で一番の不幸な人間と自分を自慰しながら、全く同じ問題を、先祖代々、子々孫々に至るまで連鎖している。
 そこには、全くオリジナリティは無い。

 鮭の一生をご存知だろうか?
 毎年、卵から生まれて河を下って海に行き、また河に上り、人間や熊に襲われながらも、ボロボロになって上流に辿り着き、卵を生み、死んでいく。そして、またその子供も、同じループを繰り返す。

 この行為を尊い生命の輝きと見るか、ただの遺伝子の傀儡と見るかは、価値観の相違であろう。
 しかし、オリジナリティが無い、無個性な存在と言うことは確かである。

 そして、それは人間も同様なのだ。
 万物の霊長と天狗になっていても、実質のところ、鮭と変わりは無いのである。

 ゆえに、人間のパターンは古代から大して変わっていない。その普遍的なパターンを知り大衆を導ける者を聖賢君子と呼ぶ。

 さて、八卦の形象は、下記のような形象である。

 上記のような形象となっており、左側の記号が、陰陽の、二進法で三回合わせた形象である。一本線が陽で二本線が陰。例えば、一番上の乾なら、陽を三回合わせた形である。

 右側の漢字がそれを表す文字だが、もっとわかりやすい漢字として、
 天澤火雷風水山地と言う、漢字でも表せる。

 さて、この易だが、五行論とも連携しており、八卦の8パターンが、それぞれ方角や季節や時間に該当しており、それぞれが、五行に分類可能である。

 巽(風)は五行では、木行に分類されている。要するに、風という象意は五行では木行なのである。イメージとしては、春の温かい風で万物が開花する春風のようなものと考えれば良い。

 風は万物を運ぶ。風水という言葉があるが、自然界で、風と水は物事を流通させるのである。水が具体的な物を運ぶのに比べて、風は、抽象的な物を運ぶ。要するに情報を象徴する。

 今回、コロナによるウイルスによる風邪と同じ症状や、風説・風聞によるシャットアウトは、八卦で言う風の象意であり五形で言えば、金に尅された結果の木行のエラーと見る。

 地球上の流通や情報がストップしているのである。かろうじて、インターネットによる情報の流通があるため、風の情報がゼロになったわけではないが、人による接触の情報は壊滅的にダウンしている。

 川中島が上記のような話を説明すると、春日はじれったそうにしながら、

「それだけか?」

「は?ええ・・・」

「話にならんな」

「・・・・・・」

 

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 災異説におけるコロナ論 まとめ

 

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