災異説におけるコロナ論 第四話

 

 董仲舒は、前漢儒学者である。

 この、日本人には聞き慣れない男は、当然、日本人ではない。当時、まだ儒学が中国の漢帝国の国教として固まる段階での儒学者であり、出世間的には、他の儒学者や他宗教の聖人や哲学者と同様に、不遇だった人物である。

 その董仲舒には、儒学者とは別に、もう一つの顔が存在している。それが「災異説」の論者としての顔である。

 災異説とは何か? それは、統治者の行為(道徳的行為)が、天と感応し、天災地災を引き起こすという古代の類感呪術的思想(天人相関説)である。

 早い話が、国内に震災や疫病などが起これば、それはその国の為政者の、徳の無い政治の結果であるという考えである。

 古来より、儒教は日本人にとっては、古臭い老人の道徳訓であり、そしてそれと同時に、長らく、為政者としての国教、統治を正統化する支配ツールだった。

 日本は、神道や仏教も、社会実験として採用した時代もあったが、結局、儒教の使い勝手の良さが群を抜いていたため、日本を含めた中華文明圏では、儒教が国教のスタンダードとなって今に至る。儒教を弾圧した共産中国ですら、今では、世界中に孔子廟を建てる有様だ。

 そのため、儒教の本場の中国はもとより、古くから日本の為政者の必須教養であり、江戸時代には徳川幕府儒教朱子学を、国家の公教として採用した歴史がある。

 具体的には、儒学の一派である朱子学が、幕府を支えるプロパガンダとしての公共の学問となったことは、日本史を学校で習った者なら誰でも知っている。

 そして、徳川の世が終わり、日本が近代に突入した後も、儒教の倫理道徳の統治システムは、明治政府に引き継がれた。

 忠君愛国の滅私奉公は、つい最近までの日本人の当たり前の道徳であり、戦後に至って、旧弊が撤廃されても、しぶとく生き残り、会社への愛社精神に引き継がれたとも言える。

 上記のような歴史の背景上があるとは言え、さすがに、現代の日本人としては、儒教とは、忠孝や軍国主義などの、封建制度を支えた御用学問であるというのが、一般認識であろう。人によっては、現代のブラック企業に逆らえない日本人の後進性の元凶であると考える話もある。

 ところが、何事も、陰陽の矛盾を内包しているのが、世の常である。

 

 

 

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 災異説におけるコロナ論 まとめ

 

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